「霊性の神学」という言葉を聞いたことがありますか?最近、話題になっている言葉です。英語で霊性は、spiritualityスピリチュアリティといいます。
それで、最近「霊性の神学とは何か」(篠原明著 あめんどう出版)という本を学んでいます。
「霊性の神学」とは何か - あめんどうブックス (ocnk.net)
私なりにザックリと内容を紹介してみたいと思います。
****************************(以下内容紹介)***
この本は、多くのクリスチャンの信仰に一石を投じるものです。というのは、著者篠原氏は、ご自身を含め多くのクリスチャンが福音を信じていても、以下のようになるのはなぜか?と問いかけているからです。
1.福音を信じていても、、、(部分的引用)
霊的欠乏感がある
「聖書を誤りのない神の言葉として確信しているのに、内側に言いようのない欠乏感があり、それを消し去ることができない。~例えば、圧倒的勝利者(ロマ8:37)~というのは正直言って実感が持てませんでした。~『私の中に御霊が、内住しておられ、働いておられるとはどういうことか』という疑問が常にありました。」
統一感がない
「~教会の自分、職場の自分、家庭の自分がバラバラになっていて、つながりを持っていませんでした。~どこにいても『クリスチャン篠原明』となっていませんでした。」
心が躍らない
「聖書的に正しいことが語られているのに、キリストの愛と恵みが語られているのに、どうして聞く者の心が躍らないことがあるのでしょうか?~聖書を正しく解釈しようとするときに忘れてはいけないもの、それを私たちは見失っているのではないかと問いかけているのです。」
*個人的感想:私は皆さんの中にも、同じ様に感じておられる方がいるのではないかと思います。著者はこれが「霊性を求める旅の始まり」だと述べております。
2.霊性とは何か?(部分的引用)
では「霊性」とはいったい何なのでしょう?本書の第一章では、神学者の言葉を紹介しています。()は神学者名
霊性とはー
・神との深いかかかわりの状態(Houston)
・キリスト者として満ち足りた本物の生き方追及することであり、キリスト教の土台となる信仰内容とそれに基づく生活のすべての経験を統合するものである(McGrath)
・教理をいきること(Gordon)
・キリスト者が聖霊によってキリストに似た者と変えられ、苦難にたえつつ神と人に愛を持って仕えることによって、神の栄光を反映するものとなるところである。(内田和彦)
・生活のすべての要素ー子供、配偶者、仕事、天気、財産、人間関係ーを含み、そのすべてを信仰の行為として経験することである(Peterson)
・神への畏敬と尊厳という感覚と神の親しい臨在という感覚が結びついている。~アバ(父)と呼んだように~。(NTライト)
*個人的感想:私は、以上を読んで、霊性とは聖霊の働きだと思いました。
3.霊性の神学の実際 (まとめ)
では霊性の神学とはどのようなものなのでしょうか?本書の目次に沿ってシンプルにまとめてみました。
福音派は宗教改革で、霊性まで捨ててしまったのではないか?福音主義に立ちつつ霊性を求めていく。
第二章 聖書を「霊的」に読むこと ─ 霊性の聖書的土台
聖書の解釈は千差万別だが、霊性によって神の正しい解釈に導かれていく。
霊性によって、神がどういうお方であるかを体験、実感していく。だから霊性と神学とは敵対しない。
霊性によって福音の土台である三位一体を理解していく。
第五章 友情 ─ 霊性を形成し実践する場(その1)
第六章 霊的同伴 ─ 霊性を形成し実践する場(その2)
第七章 信仰共同体としての教会 ─ 霊性を形成し実践する場(その3)
霊性により、兄弟姉妹、霊的同伴者、家族(共同体)としての教会、つまり、霊性を高める場としてのキリストの体を形成していく。
第八章 キリスト者の生活の全体像 ─ 福音に生きるために
霊性により、見失われつつある福音の全体像(回心、聖化、自己否定、十字架を負うこと、来るべき生の瞑想、等)を見直していく。
霊性により、共同体、そして社会との関わりが導かれていく。預言者は共同体と社会に悔い改めを語りかけた。
第十章 祈り ─ 「神との友情」に生きる者の生き方
霊性により、神との親しい双方向の交わり、特に「聞く祈り」を実践していく。
神のみ声を聞く祈り - 聖書の知恵 (hatenablog.com)
第十一章 福音主義の霊性を求めて ─ 霊性の神学からの五つの提言
そして最後十一章で、以下のように霊性を求めるための5つの提言をしています。
4. 霊性を求めるための5つの提言(第十一章)
①三位一体の理解は?改めて認識しよう。
②福音を理解するだけでなく、福音に生きよう。
③知識だけでなく、心の変容、実質的な回心を追求しよう。
④信仰は教会生活だけではない。生活における全体像を描こう。
⑤教会が霊性の形成の場となるようにしよう。
*個人的感想:私がこの提言を見て思うのは、やはり、
「霊性」という言葉を「聖霊」に置き換えれば、全てぴったりとするからです。もちろん、聖霊が内住しても肉に従い続ければ、霊性を持ちにくいでしょう。でも聖霊の導きが何かしらあるのではないでしょうか。
**************************(以上内容の紹介)****
5.聖書が語る、聖霊の内住がないクリスチャン
本書を読んでの結論として、信じていても霊性が無い一番の原因は、やはり。。。
聖霊(の内住)が無いということではないかと思います。
しかし、信じていても、聖霊の内住が無いということがあるのでしょうか?
あります。以下の聖句の通りです。
・10人の乙女の例え・・・聖霊を用意してないクリスチャン
「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油(聖霊)の用意をしていなかった。~主人(キリスト)は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」マタイ25:3
・ラオデキヤ教会への警告・・・キリストが心の中にいないクリスチャン
「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。~見よ、わたし(キリスト)は(心の)戸口に立ってたたいている」黙示録3: 20
・裁きの座で・・・神に奉仕してきたと勘違いしているクリスチャン
「『主よ、主よ、わたしたちは~多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。~そのとき、わたし(キリスト)は彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない~。」 マタイ7:22、23
・信仰に入ったとき・・・聖霊の内住を受けてないクリスチャン
「”信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか”と言うと、彼らは、”いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたもありません」と言った。」使徒19:2
これは深刻な話です。一人ひとり、自分に聖霊が内住しているか?どうか?を確認していきたいです。
信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか? - 聖書の知恵 (hatenablog.com)
では、霊性が無いと信仰生活は、どのようなものになるでしょうか?
聖書では、パリサイ人に該当すると思います。
誤解しないでほしいのは、パリサイ人といえば、悪人のようにとらえる人が多いですが、彼らは真面目で、立派な宗教家です。ただ、自分で律法を守ろうとするので、どうしても無理が出て、キリストに叱られていますよね。
例えば、マタイ23章です。
「だから、彼ら(パリサイ人)が言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、倣ってはならない。言うだけで実行しないからである~」マタイ23:3~
つまり、、、
・ホンネとタテマエが違う、
・自分も背負えない荷物を人に載せる、
・することは人に見せるため、
・上席に座ることを好み、『先生』と呼ばれたりすることを好む、
・天の国を自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない、
・律法主義になって、ルールに細かくなる、
・その割に大事なことをないがしろにする、、、
等等です。
日本の教会には、このような傾向がないでしょうか?
そういうわけで、ぜひ皆さんにも、この本を手にとって頂きたいと思います。自分には霊性があるかないか、この本を読むと、分かってくると思うからです。
そして、霊性(聖霊の内住)について、ぜひ真剣に考えて頂きたいと思います。
最後に、私が「霊性」「聖霊の内住」の重要性に至った証しをしたいと思います。
もともとは、「キリストを救い主として信じていれば天国」だと思っていました。
ところが、311、東日本大震災のとき、私は多くの人同様、ものすごい衝撃をうけ、神が嘆いていると感じたのです。嘆きの祈り - 聖書の知恵 (hatenablog.com)
「多くのクリスチャンは、悔い改めなければいけません!生ぬるいラオデキヤ状態(黙示3:14~)だからです」と。
祈り求めていくと、広い道と細い道(マタ7:13)の聖句を通して、
「ホンモノの救いの道は細いし、その細い道を歩んでいるクリスチャンは少ない!」
と示されました。では、救いの細い道に至るには、どうしたら良いでしょう?
それが「聖霊の内住」なのです。
新生し、聖霊が内住していれなければ、細い道へと導かれないからです。聖霊は、神の子としての印、神とのパイプ、命そのもの、完璧な先生、助け主です。逆に聖霊の内住がないと、ホンモノの愛や喜びを実感出来ないですし、聖化も成長もありません。
このように「聖霊の内住無しで広い道を歩んでいるクリスチャンが多い。」という深刻な状態を神が嘆いておられるとわかってきました。
そして、ある兄弟を通して特別の体験が導かれました。彼は、30年前重い統合失調症を聖霊によって癒され、教会の指導のもと、洗礼を受けた人です。聖書の理解は、平均的なクリスチャン以上だと思っていました。
しかし!長年交わる中で、私も家族の方も、聖霊の違和感を感じるようになり、残念ですが、彼には聖霊が内住していないと見分ける結論になってしまったのです!特別な事例です。神はそれを本人に伝えるように示されました。
「どうしよう?伝えたくない!でも伝えないと本人は救われていると勘違いしているので、地獄に行ってしまう!」
ものすごく葛藤しながら、その方に伝えました。当初はギクシャクしましたが、最近彼はそのことを受け入れました。感謝!
そして、この葛藤こそ、311の時の神の嘆きなのだとわかりました。
「多くの人は自分が救われていると勘違いしている!誰もそれに気づいていない!」
という神の嘆きを多くの人に伝えなくてはいけないと思っています。
世の中を見るとき、世の終わりがもうそこまで来ていると感じますが、今、一番するべき準備は、
それがなければ、何も始まらないし、成長も、携挙も、天国もないからです。
「求め続けなさい。そうすれば聖霊は与えられます。」ルカ11:9(私訳)