聖書の知恵

主を恐れることは、知恵の初め ―聖書―

教会とは?

本日は「教会とは何か?」について考えたいと思います。

教会とは、神の家族

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、                        神の家族であり~」 -エフェソ2:19-


教会とは、一言で言えば、、、


天の父なる神と、
長男であるキリストと、
他の兄弟姉妹であるクリスチャンと、
聖霊によって繋がる、
神の家族です。

 

まず一人一人が神の子となる


「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には          神の子となる資格を与えた。」-ヨハネ1:12-


教会、つまり「神の家族」のメンバ―になるためには、
まず、一人一人がイエスキリストを救い主として信じ、ボーンアゲインして、神の子(クリスチャン)となる必要があります。
神の子は、直接、神とつながり、交わり、コミュニケーションをとる関係にあります。
(もちろん求道者の皆さんはいつでもウェルカムです。)

 

二人または三人

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」  -マタイ18:20ー

次に、上の聖句が言っているように、

教会とは、
(神の子である)クリスチャンが二人、または三人以上、
(おしゃべり等のためではなく)キリストの名のために集まる
(キリストが導いている)集まり

のことです。

教会はキリストの体

「また、御子はその体である教会の頭です。」-コロサイ1:18-


「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」 -1コリント12:12-


そして、この聖句のように、教会はヒトの体にたとえられます。
頭(頭脳)はキリスト、そして、足、手、目、鼻、、、それぞれの器官が、クリスチャンです。足は歩き、目はモノを見る等の得意分野がありますが、それを賜物と呼びます。


説教、讚美、人のお世話、伝道、管理、会計、、、などいろいろな役割が皆必要ですよね。そのほか、預言、異言、癒し、奇跡、、、、等の霊的賜物も大切です。
大切なのは、司令塔(頭脳)がキリストであり、司令の伝達は聖霊だということです。

 

教団教派を超えて


さらに、この視点を大きくすると、教会どうしの連携が出来ます。個々の教会で、強味は違います。伝道が強い、聖書理解が強い、弟子訓練が強い、スピリチュアルが強い、祈りが強い、、、これらの強味を教団を超えて生かしていければと思います。余りうまくいっていないようですが。


ここでも大切なのは、司令塔(頭脳)がキリストであり、司令の伝達は聖霊だということです。個々の教会教団が、しっかりと主イエスに従っていることが必要です。
そういう意味で今のエキュメニカル運動には反対です。真理による一致ではなく、人間的な愛による一致を進めているからです。救いに至る道はキリストだけではないそうです。トンデモないまちがいです。


私は使徒言行録の家の教会

 

最後に、私の教会について言えば、現代では少数派の「家の教会」とか、「エクレシア」とか、「ハウスチャーチ」と呼ばれているものです。仲間同士で集まっています。

「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

                           -使徒 2:46-
「アジヤの諸教会から、あなたがたによろしく。アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。」  -1コリント16:19-


とあるように、もともとは、家で集まりパンを割く聖餐や賛美という礼拝をしていたのです。それから歴史とともに教会は、いろいろ変化してきました。


家の教会の実際については、
RAC 文脈化研究会のアカウンタビリティ―グループを参考にして下さい。
http://rac-network.net/02acc/02ltg01.html

 

悔い改め、大好き❤

「神そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」-ルカ24:47-

 

キリストの再来が近づいていると感じる今日このごろですが、そのための用意として何よりも大切なのは、信仰です。キリストは「ホンモノの信仰」をもつ人だけを携挙してくださるからです。でも、、、、

 

ホンモノの信仰って、何? 

 

ホンモノの信仰とは?

 

いろいろあると思いますが、私的な一つの見方として

「悔い改めが好き❤」

という人の信仰はホンモノかなと思います。

 

ホンモノの信仰をもつ人は、次のように変えられていく人だと思います。

 

キリストに無関心➡キリストLove 

み言葉が苦々しい➡み言葉がおいしい

キリストに従いたくない➡キリストに従いたい

人に仕えたくない➡人に仕えたい

罪が好き➡罪が嫌い

伝道に無関心➡伝道したい

悔い改めが嫌い➡悔い改めが好き

 

ようするに少しずつキリストの似姿になっていくわけです。

 

悔い改めのすばらしさ

 

最後の「悔い改め」は、大切です。私はボーンアゲインするとき、聖霊に悔い改めをしっかりと導かれたことを本当に感謝しています。

悔い改め、赦されることが、どんなに素晴らしいことかがわかったからです。

・それまで、縛られていた罪から、本当に自由になります。

・「頑張って、○○しなくては、、、、」ではなく、「○○大好き!」になります。

・罪人(特にその罪と闘っている人達)に限りない親しみを感じるようになります。

・世界の見え方が逆転することもよくあります。価値観が変わったからです。

 

勿論このようなことは頻繁に経験できることではありませんし、むしろ、希少な経験ですが、あまりに素晴らしいので、ついつい、「悔い改めましょう❗」と言ってしまいます。

 

でも、30年クリスチャンやっていて、悔い改めが好きな人に会ったことが、あまりありません。教会でも悔い改めの説教は少ないですよね。

 

残念です。

 

サタンの悔い改めに騙されないで

 

「悔い改め」という言葉を聞くと、皆一様に怪訝な顔をされます。私は、むしろその反応に、驚きを隠せません。

皆さん、悔い改めの素晴らしさを知らないのでしょうか?

1つの可能性として、サタン(この世)の悔い改めに騙されているかもしれませんね。

多くのことには、神のものとサタン(この世)のものがあります。例えば

神の愛 vs サタン(世)の愛

神の喜び vs  サタン(世)の喜び 

神の平安 vs  サタン(世)の平安

のようにです。悔い改めも

 

神の悔い改め vs サタン(世)の悔い改め

があるのではないでしょうか?

 

神の悔い改めは、赦し、開放、自由、謙遜、同じ罪人への愛を伴います。勿論そこに至るまでは、葛藤や苦しみがありますが、赦された後は、本当に爽やかです。

だから、もっと悔い改めたくなります。

逆にサタンの悔い改めは、いつまでも赦されないで、責めつづけるようです。そして、今一番悔い改めなくてはいけない罪以外を責めて、一番重要な問題から目をそらせるようにすることが多いと感じます。

 

もし悔い改めに悪いイメージをもっているとしたら、サタンに騙されているかもしれませんよ。

 

一度でも、神の悔い改めを経験したら、きっと、こう言いたくなると思います。

 

悔い改め、大好き❤

 

 

今は暗黒時代?

「狭から入りなさい。滅びに通じるは広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じるはなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 -マタイ7:13,14-

 

もし、「今が中世ヨーロッパの暗黒時代と同じだ!」と言ったら、どう思いますか?

暗黒時代と言えば、カトリックによる、異端裁判、魔女狩りなどが横行した血なまぐさい時代です。悪名高いのが免罪符です。「これを買えば罪が赦される」というもので、宗教改革者が、このような間違った教理に反対したのです。

 

問題は、この時代の大多数のクリスチャンは、異端裁判や免罪符を正しいと信じていたことです。つまり皆、惑わされていたのです。みんなで、「滅びに通じる門」に向かっていたのです。

 

皆さんはどう思いますか?

かわいそうな人達?愚かな人達?

 

もしそう思ったとしたら、「その人は惑わされているかも!」と言いたいです。

なぜなら、宗教改革から500年たった今、キリスト教はまた堕落しているのではないか?そして、それに気づいていないのではないか?と思うからです。以前よりもっと狡猾で分かりにくい暗黒時代になっているのではないでしょうか。

 

理由は

・終わりが近いから。

聖書は終わりの時代のラオデキヤ教会について

 「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」-黙示3:17- 

と現代の私たちに警告しています。実は酷い状態であるのに、それが分かっていないし、みんな一緒だから大丈夫と勘違いしているということです。

 

・ルターたちの宗教改革は、未完成だから。

宗教改革は素晴らしい一歩でしたが、完成しないまま、止まってしまったり、バラバラになったり、固定化してしまいました。聖書の使徒行伝と今のキリスト教を比べれば、残念ながら、堕落していると感じてしまいます。

 

・世界が堕落しているから。

今の世界情勢、悲惨な虐待やテロのニュース、周りの皆さんの生活ぶりを見ていると明らかに、皆、苦しく、ストレスにあふれ、生きてくのも大変だと実感します。もう社会全体が堕落し、教会からも愛や正義がなくなりつつあると感じます。

 

このような、時代にあって、

 

もしかしたら、、、、今のキリスト教会も、み~んな一緒に惑わされているかもしれませんよね。

 

暗黒時代の時みたいに、、、、、、、

 

大丈夫ですか?

  

目を覚ましましょう。

 

「イエスはお答えになった。“人に惑わされないように気をつけなさい。”」

                        -マタイ24:1- 

”空気” を読む文化

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働くに従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」    -エフェソ2:1-2-


KY(空気よめない)という言葉が何年か前に流行り、今では普通に使われていますね。この「空気を読む」ということは、


「その場、その場の状況、雰囲気、人々の表情などから、暗黙のルールを察して、その暗黙のルールに従うことです。」


ということで、結局、聖書に従うことでもなく、キリストに従うことでもありません。むしろ、上の聖句の空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く悪霊に従う偶像礼拝なのです。「いつもなら、やらないのに、つい、その場の雰囲気に流されて○○してしまった。」というのは誰にでもありがちなことですよね。


「場の空気」というものは、職場の空気、学校のクラスの空気、PTAのお母さん達の空気、ご近所の空気、地域の空気、、、、最近では、SNSフェイスブックの空気などがありますが、同じ職場、学校と言っても、それぞれに特徴のある場の空気を醸し出します。最近は、いじめや虐待などの空気が益々濃くなっていると感じています。

この「場の空気」というものは、そこにいる人達を自然にコントロールし、何となく逆らうことができなくなる、目に見えないパワー、、、その正体は悪霊なのです。


”空気“という偶像の特徴


日本には「場の空気」というものが無数にあり、それぞれに「暗黙のルール」があり、常に空気を読まないといけないので、一つの信念を通すのは大変難しくなります。よって、白黒ハッキリを避け、「あいまい」にしておく傾向になっていくのです。

このような非常に特徴的な社会システムを維持するために、日本には次のような共通のルールがあるようです。


1 空気を読め―――その場の暗黙のルールを察して、それに従うべし
2 空気を乱すな―――和をもって尊しとなす、、、みんなに合わせるべし
3 水をさすな―――黙れ。 質問、異論、根拠、議論、等を唱えるべからず。
4 水の様になれ――― 臨機応変になれ。前のルールは忘れ、その場のルールに合わせて変化せよ。 
5 水に流せ――― 責任を問うな。いちいち責任を追及するべからず。
6 伝道するな――― 公の場では、宗教の話はするべからず。教会の中だけにせよ。

7 その他

 

「空気を読む」人の特徴


つぎに、いつも、臨機応変に、場の空気を読む人の特徴を以下のようにまとめてみたいと思います。


1 空気を読むことによって、その場その場で、考えがコロコロと変化していることを自覚していない。自分では一貫していると思っている。


2 水に流したり、あいまいにするので、罪の責任をとるという考えが弱い。つまり、聖書的な悔い改めや十字架の恵みがわかりにくい。


3 山本七平氏はこのような隠れた偶像礼拝の現状を「日本にはキリスト教も仏教もない。あるのは日本教キリスト支部日本教仏教支部。」と述べ、多くのクリスチャンの信仰を日本教と呼んだ。(参考「日本人とユダヤ人」)


4 土居健郎氏は、心理学、国際文化学など学術分野でも「外国人と比べて日本人は、依存性が強い」と、その強烈な甘え体質を指摘している。つまり偶像礼拝を犯しやすい文化を持っている。(参考「甘えの構造」)


5 歴史問題では、外国と摩擦が起こりやすい。多くの人が、本当の反省がないままであり、加害者意識を持っていないばかりか、被害者意識が強い

6 その他


「空気を読む」のではなく、聖書を読む


ですから私たちクリスチャンは、この「空気を読む」という日本の習慣文化が、実は悪霊に従う、隠れた偶像礼拝であることを理解し、自分自身を探り、悔い改めていくべきではないでしょうか?そうすれば、自由になり、もっと主イエスに仕えることができるのです!


空気を読むのではなく、、、、、、、聖書を読みましょう!


暗黙のルール従うのではなく、、、、、、、キリストの愛の律法に従いましょう!


水に流すのではなく、、、、、、、
      罪をきちんと認め、十字架のキリストに責任を取ってもらいましょう!

神? それとも サタン?

映画でも有名なモーセのエジプト脱出は、旧約聖書の史実ですが、その中に、モーセとエジプト王ファラオとのかけひきがあります。 モーセが奇跡を起こすとファラオの呪術師も同じ奇跡を起こすのです。ところが、ある時点からは、モーセの奇跡を真似できなくなります。

今日ここで学びたいのは、サタンも神のような働きをある程度できるということです。

ですから、今、私たちは、聖書にある終末の偽預言者、偽キリストに対する警告に心をとめ、一つ一つのことを

「これは、神? それとも サタン(この世)?」

と吟味し、見分ける必要があると思うのです。

 

例えば、癒しや奇跡です。

最近ニューエイジ(サタン側)の活発な癒しの活動に巻き込まれている人が増えているので、気を付けなくてはいけませんが、もっと深刻な問題はクリスチャンの中で、行われている癒しの中にもサタン的なものがあることです。

ですから、教会で行われる癒しや奇跡も、教えられることも、

「これは、神? それとも サタン?」

と一つ一つ吟味して、聖霊の判断を仰ぎつつ歩んでいきたいと思います。

 

そのために

①まず疑う

大切なのは、多くのものに、神のものとサタン(この世)のもの両方があるということを知ることです。そしていつでも、すぐに受け入れないで、「これは神?それともサタン(この世)?」と疑うことが大切です。

例えば以下のような例があげられます。

キリスト vs 反キリスト(反キリストは、一見キリストのような人)

神の癒し、奇跡 vs サタンの癒し、奇跡

神的聖書の教え vs サタン的聖書の教え(サタンは聖書を使って惑わします)

神の悔い改め vs  サタンの悔い改め(いつまでも責めるのはサタンです)

神の愛 vs サタンの愛(最近の教会には、そのままでいいという仏教の愛がかなり侵入しています)

その他いろいろ 神か?、サタン?か、まぎらわしいものがあります。

 

②聖書的か?否か?聖書に相談する。

では実際どのように見分けていくのでしょうか?まずは、聖書に向き合います。

「聖書に書いてあるかどうか?」と共に、

「聖書全体の文脈や価値観に会うかどうか?」が、大切です。

例えば、最近、金粉が降ってくる奇跡が起こる教会があるそうですが、このような奇跡は聖書にありません。完全に否定はすることはありませんが、私は受け入れません。

また、金粉が降ることで主の栄光が現れるのでしょうか?誰が恩恵にあずかるのでしょうか?ただ、感情が高揚するくらいです。どうも聖書の価値観に合いません。ますます、受け入れがたいです。

「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。~ このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」-マタイ7:16,20-

これが聖書的見分けの最大のポイントです。この金粉の奇跡によって御霊の実、つまり愛、喜び、平安、謙遜、自制などの実が結ばれているか、吟味します。私には高慢しか感じられませんでした。(実際にお目にかかってないので、あくまでも感じですが)

これ以上、この金粉が神からのものだという根拠がなければ、私は否定します。

 

③成長、聖化のすすんだ先輩、指導者に相談する

成長、聖化がすすむことによって、見分けの感度が鋭くなっていきます。ですから先輩、指導者に相談するのもよいでしょう。勿論、自分が成長することが大切です。

「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」-ヘブル5:14- 

とあるように、成長、聖化と共に目が澄んできて、固い食物、つまり高度の判別力を必要とする物事の善悪がよく見えるようになるということです。

 

④見分けの賜物(才能)のある人に相談する。

神か?サタンか?を見分ける特別な能力のある人がいます。もしそのような人が周りにいれば、その人に相談するのもいいでしょう。

「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。・・・ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。」ー1 コリ12:7.10ー

とあるように、ボーンアゲインしたものは1つ以上、聖霊による才能が現れてきますが、その一つに「霊を見分ける賜物」があり、高度な判別を可能にします。

 

⑤主イエスに相談し、最終的に自分で判断する。

主イエスに相談、つまり祈ることは初めからすべきことです。そして、誰に相談しようとも、先輩や指導者がなんと言おうとも、

「最終的な判断は自分がしなくてはいけません。」

主イエスもその責任を本人に問います。アダムのように「あの人が、そう言ったのです。」と責任転嫁はできません。これはとても大切なことです。

 

以上のように、終わりが近づいている今、私達は、騙されないよう、一つ一つのことを

よく考え、聖書や人に相談し、よく祈って、最終的に自分でしっかりと見分けていきましょう。 

「これは、神? それとも サタン?」

隠れた偶像礼拝

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 あなたはいかなる像も造ってはならない。」 ー出エジプト20:3,4ー

 

日本には初詣、お祭り等、偶像礼拝の習慣が数多くありますが、通常クリスチャンはそれらを罪として避けていると思います。

しかし、もし、その偶像が何かに隠れていて、気が付かない場合は、どうでしょう?気が付かないのですから、知らず知らずのうちに、その偶像の悪影響を受けることになるのです。これを「隠れた偶像礼拝」と呼ぶことにします。

では、まず、偶像礼拝とはなんでしょう?

それは、何か「⚪⚪」をイエスより、信じ、愛し、依存し、聞き従い、支配されること、つまり・・・・イエスを主としていない罪なのです。

 

では、隠れて気付かない偶像礼拝には、どんなものがあるでしょうか?

「お金」や「自分」が神、偶像になることは、よく知られています。しかし、以下の例はあまりしられていない、隠れた偶像礼拝です。

 

1 組織、地域、リーダーという偶像

組織やリーダーによく仕えるのは悪いことではないです。しかし、主イエスより優先して聞き従うことは偶像礼拝です。

(例)会社や社長。あらゆる集団やリーダー。学校、仲よしグループ。アニメの世界やアイドル。カルト集団。教会では、み言葉より、教団や牧師に聞き従う場合は偶像礼拝となってしまいます。

2 科学や仕事などの偶像

いろいろな価値観そのものを人生の最優先の目的として愛し、規準とし、求めていくことは偶像礼拝となります。

(例)”お金”はよく知られた偶像。その他、”仕事”、”努力”、”知識”、”美”、”健康”等です。”家族の絆”もキリスト以上に求めると偶像礼拝となります。

3 依存症という偶像

現代社会のいわゆる”依存症“”も偶像礼拝と言えます。依存とは、それがないと生きられない、それをひたすら求め、そのためにすべてを捨てていくというものだからです。

(例)アルコール依存、ギャンブル依存、スマホ依存、ゲーム依存、買い物依存、恋愛依存,等は最近、社会問題になっていますね。特に”共依存”という不健康な甘えの関係は”愛”と勘違いされやすい危険な偶像礼拝と言えます。

4 ”場の空気”という偶像

その"場の空気”を読んで合わせることは実は、ある意味最強の偶像礼拝と言えます。その“場の空気”は悪霊であり、”場の空気”が一つ一つの集団を支配しています。日本人はいくつもの集団に属し、いくつもの偶像を礼拝しています。

「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」ーエフェソ2:1ー

(例)職場の空気、学校の空気、ご近所の空気、、時には、いじめの空気、戦争の空気、メディアの空気等。最近は、SNSYouTubeが新たに強力な空気を作っています。

 

以上のように、日本には偶像となるものは非常に多く(八百万の神?)、それぞれに「暗黙のルール」があり、常に空気を読まないといけないので、一つの信念を通すのは難しくなります。自動的に白黒ハッキリを避け、「あいまい」にしておく傾向になるのです。

ですから私たちクリスチャンは、これらの隠れた偶像礼拝を理解し、自分自身を聖霊に探って頂くべきではないでしょうか。 この偶像を捨て去るのはそう簡単ではないと思います。例えば、日本の暗黙のルールには、

「宣教するな――― 日本の社会では、ふつう宗教の話はするものではない。教会の中だけにしなさい。そんな話をする人は場をわきまえない変な人と評価されますよ。」

というのがあると思います。これに従っているクリスチャンは多いのではないでしょうか?私もこの世間の目が、どうしても気になって、近所や友人に自由に伝道できてません。

 

この暗黙のルールを捨てましょう!

そして真の神、主イエスに従いましょう!

 

「全世界に出ていき、全ての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」 

 

                                                

ニッポン人から、天国人へ

しかし、私たちの国籍は天にある。

            -ピりピ3:20-

 

クリスチャンはボーンアゲインして以前とは別の新しい人、つまりキリストのようになった人達です。ただ、その新しい人とともに「肉」がまだ元気なので、これを聖めていく聖化が大切ですね。

「肉」とは、信じる前の考え方、感情、価値観です。

聖書は、これを捨てよ!と言ってます。(「キリスト的断捨離」の中で説明しています。)

今回は、その捨てるべきものの一つ・・・・・文化(考え方、価値観)について考えてみたいと思います。

 

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。  -マタイ10:38,39-

 

結論からいうと、私たち日本人は、日本文化を捨てて、天国人になるべきです。

文化を捨てる?と疑問に思うかもしれませんが、勿論、日本文化の良いところではなく、聖書に反する、罪の部分をすてるということです。

 では聖書に反する、日本文化にはどんなものがあるでしょうか?

 

・神社仏閣参拝・・・・これは聖書では一番の罪。キリストを神としない罪。偶像礼拝。霊的には姦淫、浮気にあたる。

 

・「甘え」体質・・・・子どもが母親に甘えるように他者や集団に甘える。依存関係。その甘える相手を神とする偶像礼拝。土居健郎著「甘えの構造」参照

 

・「空気」を読む人間関係・・・・「空気」とは「暗黙のルールを強いる絶対的権力」である。(山本七平著「空気の研究」より)

聖書では、空中の権威、悪霊(エペソ2:2、5:21)と表現されている。

つまり空気を読むことは悪霊に従うことで、いじめ、パワハラ、戦争等につながっていく。

 

・罪を水に流す・・・・責任(代償)感覚がないので、自分を地獄に行くべき罪人と認めることができない深刻な不信の罪。十字架の贖い、恵み、愛が実感できない。

 

・中庸の精神・・・・白黒ハッキリより、グレーを好む。聖書には中庸と言う概念はなく、「熱いか冷たいか」「イエスか、ノーか」ハッキリ。むしろ生ぬるいことは一番嫌われる。

 

・タテマエ・・・・聖書的には、ただの嘘、偽善。神はホンネだけを見る。

 

・完璧主義・・・・良い面は日本の匠の技を産むところ。悪い面は、欠点しか見ないので、自他を苦しめ、神の愛、恵を受け取れない罪。

 

・すみません・・・・良いものや良い言葉を「すみません」と言ったり、「とんでもありません」と遠慮して拒否する言葉。「ありがとう!」と言って受けとるべき。

 

・その他、集団主義、察しの文化、隠す文化、細やか文化等いろいろ。

 

以上です。

 

主イエスに聞き従っていくとき、一つ一つ捨てるべきものが示されます。私も外国人の友人や、上述の「甘えの構造」「空気の研究」等の本を通して、「そこ、変だよ!」と教えられ、その時は苦しかったのですが、聖書で確認しながら捨ててきました。まだ、道半ばですが。

 

実感として、、、、、、とっても自由になりました!ハレルヤ!

 

ですから、皆さんもどうぞ、ニッポン人を捨てて、

        キリストのような天国人になっていきましょう!!